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2013.01.05 (Sat)

勘違いの歌

 ロシア民謡に『一週間』という有名な歌があります。「日曜日に市場へ出かけ」で始まるあの歌です。幼いころ、私は日曜日に市場へ出かけて買ってきたものは「糸」と「朝」なのだと思っていました。何しろ月曜日にお風呂を焚いて火曜日に入るような歌なので、一週間の始まりに「朝」を買ったところで不思議には思わなかったのです。
 しかし、それが「母さんが夜鍋をして」で始まるあの『かあさんの歌』になるとそう呑気ではいられません。二番の歌詞で「母さんが朝糸紡ぐ」が「一日紡ぐ」と続いて頭の中が大混乱。「一日」に朝は入るのか、入らないのか、どうでもいいことで悩んだ時期があります。そもそも、『かあさんの歌』自体が私にとって勘違いの宝庫で、「夜鍋」は夜食のことだと思っていたし、「笑う血仕事」で父親は土間で笑ってひどい仕打ちをしていたのだと思っていたし、「根雪」ではなく「ねえ、雪」と呼びかけているのだと、思っていましたし。この歌のちゃんとした意味を理解するのは小学校も高学年になってからだったと思うのですが、私がこの歌を習って歌ったのはなぜか保育園の時でした。保育園児に『かあさんの歌』の妙味がわかるものですか。今はそう言いたい。
 歌で勘違いといえば、『大きな古時計』のお爺さんの名前は「ボル」なのだと思っていたこともあります。ほら、だって最後の方で「天国への、ボルお爺さん」って歌ってるでしょ?
 あと、ほら、赤い靴を履いた女の子はニンジンさんに連れられて行っちゃったり……やれやれわたくし、恥の多い人生を歩み続けております。
 ところで冒頭の『一週間』ですが、小さいころに歌って覚えた歌詞と本当の歌詞は少し違っているのをご存知でしょうか。特に水曜日に泊りがけで来訪した「友達」と最後に呼び掛ける「友達」は、ただの友達ではなく「愛しい恋人」だというのだから興味深いですよね。また、土曜日は単なるお喋りをしたのではなく、故人の思い出を語り合っていたようです。(詳しくはこちらへ)
 また、これは単なる私の考えですが、土曜日の語り合いは安息日と何らかの関係があるのではないか、という気がします。というのも、ユダヤ教や一部のキリスト教では「土曜日」が安息日であるとされていて、ロシアで主流派となっている正教会でも土曜日が安息日。そういうわけで、この歌の主人公は安息日に仕事を休んで故人や神やキリストについてしみじみと語りあう敬虔なキリシタンだった、と考えられなくもないわけです。
 歌って難しい。
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2013.01.14 (Mon)

人に成る

 統計局の公表によれば、昨年は122万人が「おとな」の仲間入りを果たしたそうです。
 子供だった私は、成人した「おとな」はみんな、理性と分別と教養のある素晴らしい人間なのだと信じていましたし憧れてもいました。しかし、いざ自分が成人してみると、「おとな」というのはまあ大したことがないという事実に気付きます。孔子がいうところの「而立」の年齢はとうに過ぎ薹こそ立ちましたが、残念ながら立身の見込みはありません。このまま「不惑」の年齢に到達しても、今と変わらず当てどもない状態でいるに違いありません。
 精神的な成長は間違いなく十代のうちに止まりました。肉体的な成長も同じで、今はただただ老化していくのみです。殊に脳の老化は半端なく、小難しい問題にぶち当たると機能停止に陥ります。要するに「おとな」とは下り坂なのだ、と最近は半ば諦めの気持ちです。
 ところで、成人とは何者でしょうね。
 私が修めた学問の分野でそれらしく答えるなら、人が本来持つ「権利」のうち、年齢よる制限がすべて解除される状態が成人である、といういうのが答えかもしれません。
 飲酒をする権利、喫煙をする権利、投票する権利、または広く契約をする権利、それらは「人」であれば自分の裁量で自由に行使することのできる権利ですが、未だ人に成らざる者がそれらを行使することは許されていません。未成年者が飲酒や喫煙をすれば補導されますし、投票用紙はもらえません。勝手に取り交わした契約は親が取消すかもしれません。しかし、ひとたび人に成ればもはや誰からの干渉も受けません。
 飲みたければ酒を飲み、吸いたければ煙草を吸うことができます。自分の選んだ候補者にその票を投じることもできます。契約を行い、権利を得たり、債務を負うこともできます。それらはすべて自らの「意思」により選択することが可能になるのです。ただし、その選択には「責任」が伴うことも忘れてはいけません。
 飲みすぎて病気になったら元も子もないし、歩きたばこをして子供の目の高さで火をブラブラさせている人は阿呆です。投じる票はその先の自分たちの未来を決める貴重な一票です。相手を脅して無理やり行った契約は取り消されることもあるでしょう。
 選択すれば結果が伴い、その結果に対する「責任」を必ず負う。逃げたくなっても逃げない、重たい「責任」を背負ってそれでも二本足で踏ん張って立つ、それが真実の「おとな」なのだと私は思います。そういう意味で、私はまだまだ「おとな」の階段上り途中だなぁ。
 我ながら恥ずかしいことこの上ない。そしてこの階段、嗚呼、なんとも長いことですよ……。
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2013.01.26 (Sat)

忙しい神様

 完成を目前に著者ロバート・ジョーダンの他界により中座してしまった珠玉のファンタジー。アメリカで後継者が続きを書き始めたとは知っていましたが、翻訳版が出ることはもうないのだろうと諦めていました。そうしたら先日、ひょんなことから後継者ブランドン・サンダースンの最初の一冊が翻訳されていることを知り、早速購入です。<時の車輪>シリーズ第12部『飛竜雷天』。この日をどれほど待ちわびていたことか!
 下巻の冒頭で、マット・コーソンが風変わりな村に立ち寄りえらい目に遭う様子が描かれています。そこは、昼はいたって普通の長閑な村。けれども日暮れとともに村人は狂人となり殺し合いを始めます。しかし、夜に死んだ者も生き残った者も、朝日と共にベッドで目覚める。前夜の狂気は悪夢として記憶され、一日が始まる。この繰り返しに悲観して自殺しても、村から遠くに逃げても、夜が明けるといつもの場所で目覚める。永遠にそれを繰り返す村。
 私はそのくだりを読んだとき、ふと阿修羅道のことを思い浮かべました。文字通り阿修羅が住む世界で、そこでは争いや憎しみが絶えることがありません。昔、何かで読んだことがあるものの記憶が定かではないのですが、阿修羅は不死身で、戦い傷つき倒れても、朝には甦り再び剣を握るのだそう。そのため永遠に争いの苦しみから逃れられないと言われています。
 人は死んだらそれで終わりですが、死んでも死んでも死ねないなんて。それは本当の地獄かもしれません。

 ところでこの阿修羅、興味があって調べてみたことがあります。なんとも忙しい神様でしてね。
 古代のイラン・インドで最高神とされたヴァルナは宇宙の秩序と人類の倫理を支配する神でした。これがゾロアスター教の中でアフラ・マズダーと呼ばれる最高神となり、最後の審判の日に善悪の判別するとされました。このアフラ・マズダーのインドでの呼び名がアスラ(阿修羅)なのですが、いつのまにかヴァルナとは神格が別で、眷属という位置づけに。しかし、時代が下ると阿修羅はさらに格下げされて、ヒンドゥー教の世界では何度倒されてもインドラ(帝釈天)に戦争を挑み続ける鬼神という位置づけに甘んじることになりました。正義の神から悪の神への大転換です。一体何がどうしてそうなったのやらですが、決してインドラには勝てないのに諦めない、というところに私はガッツを感じてしまいます。
 そして最後に仏教に取り入れられて、仏法を守護する存在となったとのこと。あっちゃこっちゃと、本当に忙しい神様です。
 そういえば、最近では興福寺の阿修羅像が俄か人気を博したこともありましたね。中学生の頃、美術の教材に載っていたその像を見て、なんて綺麗な像だろうか、と子供ながらに感じたことが思い出されます。私の阿修羅への興味はこの像と
CLAMPの『聖伝─RG VEDA─』から始まったのですが、それが何年もの時を経てアシュラーなるファンが生まれてくるなんて想像もしていませんでした。
 世の中は、思いがけないことの連続ですね。
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