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2015.04.29 (Wed)

今では夢を見つけるのが夢で

 昨日久しぶりにブログを更新した時、実は軽くショックだったのです。私、ここのブログを2年以上も放置してたのですね。
 実は、2年前以前とは違い、この2年間、正確に言えばこの1年間で私の生活環境も大きく変わりました。1番の違いは、職種が変わったこと。営業をするつもりで某信販会社に入社したその日に「情報システム部」とかいう得体の知れない部署に配属が決まり、以来転職してもなお続けてきたシステムエンジニアという肩書が遂になくなり……まあ正直私は似非エンジニアだったので仕方ないのですが、摩擦のようなものが色々とありまして、結果私がシステム部をクビになりましてね、給料カットの上で担当者が産休に入るため人手が足りなくなった経理に異動と相成りました。
 そう、今の私の職種は似非ケーリ。
 まるで未知の領域の仕事なのでやることを覚えるのが大変なのですが、この1年は土日に回ってくる徹夜仕事もなく、エンドレスな残業もなく、結果的にハッピーな職場ライフを送っています。
 けれども、産休に入った方が秋には復帰されるので、そろそろ経理もクビでしょうか……というのが、気がかりなところ。
 色々とあったので、システム部に戻されるのも微妙な気がします。思えば、私って一体何がしたかったのでしょうねぇ……と、そんな時に思い出すのが大黒摩季の『LOVIN' YOU』。「今では夢を見つけるのが夢で」状態です。
 中学生までは歴史学者になりたかったのですよね。高校生の頃は絵本作家になりたかったのですよ。でも大学は法学部に進学してしまいました。就職したらシステムエンジニアになりました。今では経理に所属しています。
 ……根無し草って、これ私みたいな人間のことです、きっと。(笑)
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2015.04.28 (Tue)

おのれが幸福であれかし

 家を出た時に目の前をすっと、普段は見かけない何かが横切っていきました。はっとして目で追いかけたら、それは電線の上で止まり……よくよく見ると、ツバメでした。
 春ですねぇ。
 ツバメというと、私はワイルドの『幸福な王子』を思い出します。黄金や宝石で飾られた王子の像が、ツバメを使って不幸な人々に自分の体の一部を届ける物語です。越冬の機会を失ったツバメは力尽き、自らを飾り立てていたものをすべて失った王子の像は溶かされてしまいます。
 自己犠牲。
 私たちはこの言葉が好きですよね。私の地元・印旛沼にも、干ばつから人々を救ったために竜王の怒りを買い、八つ裂きにされた竜の伝説が残っています。(切り裂かれた竜の体が落ちた場所には、それそれ龍角寺、龍腹寺、龍尾寺という寺があります。今でも)
 そういえば、年貢の取り立てが厳しすぎると将軍に直訴して、一家全員死罪となった佐倉惣五郎なんて人の伝説も、この辺りには残っていますね。
 自己犠牲。
 私はこの言葉、嫌いです。
 誰かの幸せのために、自分が犠牲になるなんて、そんなの絶対に意味がない。己の犠牲の上に誰かの幸せがあるのを、そしてそれを心穏やかに眺めていられるほどに、人間って完璧には出来ていないと思うのですよね。私だったら、幸せになった相手を妬み嫉み、恨むかもしれません。ましてや命を落としたとなっては死んでも死に切れず、成仏できずにジバニャン化する可能性も……私の器量が乏しすぎるのだ、と言われれば、まあ、それまでですが。
 逆に、私が誰かの犠牲と引き換えに幸福を受け取る側だったとしても、やはり、なんだか心にしこりが残ります。そしてその事実を時々思い出しては、どんよりとした靄の中に沈み込んでしまうに決まっているのです。

 まずは、自分を大切にしたい。

 もしもワイルドのツバメがエジプトに越冬し、健康な体で次の季節に戻ってきていたら、もっと多くの幸せを、その小さな翼で運ぶことができたかもしれません。やりすぎること、頑張りすぎることによって、無理をしなければ得られたであろう何かを失うことだってあるのだと、私は思うのです。
 ワイルド自身も、言っていますからね。

A thing is not necessarily true because a man dies for it.
命をかけるものが、「真実」とは言いきれまい
by Oscar Wilde          

 幸せになりましょう。
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2013.02.02 (Sat)

ハッピーかい?

 父親は子供たちに過剰の期待をする。子供たちはやがて独立し、それぞれに父親の期待した通りの成功を収めている。……と、父親だけは信じている。
 けれども現実は違います。子供たちはそれぞれに問題を抱え、必ずしも父親が期待したような成功を収めたわけではありません。その事実は父親の耳には届かない。なぜか。そうすることですべてが丸く収まるから、敢えて父親には話さないし、時に父親に嘘をつくのです。
 『みんな元気(
EVERYBODY'S FINE)』という映画を見ました。妻に先立たれたばかりの主人公をロバート・デ・ニーロが演じています。物語は週末に帰ってくるはずの子供たち全員が用事を理由に帰ってこなかったというところから始まり、寂しさに駆られた父親が子供たちを訪ね歩くというストーリー。
 しんみりと、じんわりと、大変素晴らしい作品でした。
 父は確かに過剰な期待を子供にしたかもしれません。けれども、それは父親にとって精いっぱいの愛情だったのだと思います。子供たちは父親の期待を負担だと思ったかもしれません。けれども、子供たちはみな、父親を愛しています。親子の深い絆というものを感じさせてくれる作品です。
 物語の終わりに、妻の墓石の前で反省の弁を述べるシーンは印象深い。そして、もう一度やり直せるなら、子供たちに、ただ幸せでありさえすればそれでいいと教えたい、というシーンも。
 長年電線のコーティングをしてきたという主人公の職業にちなんで、電線の映像が何度も何度もクローズアップされる演出も狙ってると思います。子供たちが何度も電話で連絡を取り合うシーンもそう。夫が自宅に電話をかけて、留守番電話の応答に死んだ妻の声を聞くシーンも。遠く離れていても、電線のように常に繋がっている、それが家族なのだ、というメッセージだったに違いありません。
 久しぶりに良い作品に巡り合えたと思います。
 そしてこの映画、『みんな元気(
Stanno Tutti Bene)』というイタリア映画のハリウッド版だそうで、『みんな元気(Stanno Tutti Bene)』は小津安二郎の監督作品『東京物語』のオマージュなのだとか。『東京物語』といえば、今現在『東京家族』というオマージュ作品が劇場で公開されていますよね。
 そのように聞くと『東京物語』そのものが気になってきます。いつか、見てみたいものです。
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2013.01.26 (Sat)

忙しい神様

 完成を目前に著者ロバート・ジョーダンの他界により中座してしまった珠玉のファンタジー。アメリカで後継者が続きを書き始めたとは知っていましたが、翻訳版が出ることはもうないのだろうと諦めていました。そうしたら先日、ひょんなことから後継者ブランドン・サンダースンの最初の一冊が翻訳されていることを知り、早速購入です。<時の車輪>シリーズ第12部『飛竜雷天』。この日をどれほど待ちわびていたことか!
 下巻の冒頭で、マット・コーソンが風変わりな村に立ち寄りえらい目に遭う様子が描かれています。そこは、昼はいたって普通の長閑な村。けれども日暮れとともに村人は狂人となり殺し合いを始めます。しかし、夜に死んだ者も生き残った者も、朝日と共にベッドで目覚める。前夜の狂気は悪夢として記憶され、一日が始まる。この繰り返しに悲観して自殺しても、村から遠くに逃げても、夜が明けるといつもの場所で目覚める。永遠にそれを繰り返す村。
 私はそのくだりを読んだとき、ふと阿修羅道のことを思い浮かべました。文字通り阿修羅が住む世界で、そこでは争いや憎しみが絶えることがありません。昔、何かで読んだことがあるものの記憶が定かではないのですが、阿修羅は不死身で、戦い傷つき倒れても、朝には甦り再び剣を握るのだそう。そのため永遠に争いの苦しみから逃れられないと言われています。
 人は死んだらそれで終わりですが、死んでも死んでも死ねないなんて。それは本当の地獄かもしれません。

 ところでこの阿修羅、興味があって調べてみたことがあります。なんとも忙しい神様でしてね。
 古代のイラン・インドで最高神とされたヴァルナは宇宙の秩序と人類の倫理を支配する神でした。これがゾロアスター教の中でアフラ・マズダーと呼ばれる最高神となり、最後の審判の日に善悪の判別するとされました。このアフラ・マズダーのインドでの呼び名がアスラ(阿修羅)なのですが、いつのまにかヴァルナとは神格が別で、眷属という位置づけに。しかし、時代が下ると阿修羅はさらに格下げされて、ヒンドゥー教の世界では何度倒されてもインドラ(帝釈天)に戦争を挑み続ける鬼神という位置づけに甘んじることになりました。正義の神から悪の神への大転換です。一体何がどうしてそうなったのやらですが、決してインドラには勝てないのに諦めない、というところに私はガッツを感じてしまいます。
 そして最後に仏教に取り入れられて、仏法を守護する存在となったとのこと。あっちゃこっちゃと、本当に忙しい神様です。
 そういえば、最近では興福寺の阿修羅像が俄か人気を博したこともありましたね。中学生の頃、美術の教材に載っていたその像を見て、なんて綺麗な像だろうか、と子供ながらに感じたことが思い出されます。私の阿修羅への興味はこの像と
CLAMPの『聖伝─RG VEDA─』から始まったのですが、それが何年もの時を経てアシュラーなるファンが生まれてくるなんて想像もしていませんでした。
 世の中は、思いがけないことの連続ですね。
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2013.01.14 (Mon)

人に成る

 統計局の公表によれば、昨年は122万人が「おとな」の仲間入りを果たしたそうです。
 子供だった私は、成人した「おとな」はみんな、理性と分別と教養のある素晴らしい人間なのだと信じていましたし憧れてもいました。しかし、いざ自分が成人してみると、「おとな」というのはまあ大したことがないという事実に気付きます。孔子がいうところの「而立」の年齢はとうに過ぎ薹こそ立ちましたが、残念ながら立身の見込みはありません。このまま「不惑」の年齢に到達しても、今と変わらず当てどもない状態でいるに違いありません。
 精神的な成長は間違いなく十代のうちに止まりました。肉体的な成長も同じで、今はただただ老化していくのみです。殊に脳の老化は半端なく、小難しい問題にぶち当たると機能停止に陥ります。要するに「おとな」とは下り坂なのだ、と最近は半ば諦めの気持ちです。
 ところで、成人とは何者でしょうね。
 私が修めた学問の分野でそれらしく答えるなら、人が本来持つ「権利」のうち、年齢よる制限がすべて解除される状態が成人である、といういうのが答えかもしれません。
 飲酒をする権利、喫煙をする権利、投票する権利、または広く契約をする権利、それらは「人」であれば自分の裁量で自由に行使することのできる権利ですが、未だ人に成らざる者がそれらを行使することは許されていません。未成年者が飲酒や喫煙をすれば補導されますし、投票用紙はもらえません。勝手に取り交わした契約は親が取消すかもしれません。しかし、ひとたび人に成ればもはや誰からの干渉も受けません。
 飲みたければ酒を飲み、吸いたければ煙草を吸うことができます。自分の選んだ候補者にその票を投じることもできます。契約を行い、権利を得たり、債務を負うこともできます。それらはすべて自らの「意思」により選択することが可能になるのです。ただし、その選択には「責任」が伴うことも忘れてはいけません。
 飲みすぎて病気になったら元も子もないし、歩きたばこをして子供の目の高さで火をブラブラさせている人は阿呆です。投じる票はその先の自分たちの未来を決める貴重な一票です。相手を脅して無理やり行った契約は取り消されることもあるでしょう。
 選択すれば結果が伴い、その結果に対する「責任」を必ず負う。逃げたくなっても逃げない、重たい「責任」を背負ってそれでも二本足で踏ん張って立つ、それが真実の「おとな」なのだと私は思います。そういう意味で、私はまだまだ「おとな」の階段上り途中だなぁ。
 我ながら恥ずかしいことこの上ない。そしてこの階段、嗚呼、なんとも長いことですよ……。
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